摩訶不思議な交流
- 2016/10/15
- 越後奥寂庵
昨日、深夜に越後奥寂庵に戻り、今日一日、いつも何かの折にお世話になっている地元の方の依頼で、写真撮影をしてきました。ここに居ると、自分が与えるより与えられることが多いと常々感じているので、自分に出来ることで恩返しできるのはとても有難いことなのです。
夜、いい気持ちで奥寂庵に戻り、玄関を入ると、上がり框に見覚えのない紙袋が置いてありました。なかを覗くと5kgほどのお米が2袋入っていました。きっ とできたての新米なのでしょう。メモ書きが入っていると思いきや、何も入っていません。誰からのものなのか、一切分からずです。
昨夜遅くに到着し、お昼前には出かけたので、集落の方とは一切会っていないのです。でも、障子が開いていたり、軽トラの置き場所が変わっていたりなどの少しの変化から、私が居ることが分かったのでしょう。収穫したての新米を置いていってくれた心遣いに、さらに幸せな気持ちになりました。それと同時に、この場所は摩訶不思議だという気持ちが湧いてきました。昼間、恩返しをしていた方は、地元の方と言っても隣町の方なので、置いていったお米とは全く関係ないはずです。でも、何処か深いところで皆が繋がっているようで、共時的にこのようなことがよく起きるのです。この場に何かを与えると、全く異なる人から「別の何か」が与えられるのです。このような摩訶不思議な交流が根底にあることから、ここで は「如何に得るか」よりも「如何に与えるか」の方が基準になっているように感じるのです。
仕事では「如何に得るか」ということは、誰もが考えることでしょう。仕事をする上では当然です。それは清水博先生の「場の理論」で言うところの「果の論理」の発想ですが、「如何に与えるか」ということは「因の論理」の発想だと、あらためて実感しました。また、「如何に得るか」ということは、有田秀穂先生が言うところの「ドーパミン的価値観」であり、「如何に与えるか」ということは「セロトニン的価値観」となります。
「因の論理」「セロトニン的価値観」では、何かを与えても、物質的な対価が約束される訳ではありません。「見返り」という「果」を求めて与える訳ではないからです。しかし、「与える行為そのもの」が、私たちを満たし、幸せを感じさせてくれるのです。
ここでは一日家を留守にする際でも、玄関に鍵は閉めません。そのような繋がり方、信頼の仕方が「与え合う」ことの土台にあるのです。少子高齢化が進み、限界集落になっても「与え合う場」であるのは、なんと豊かなことでしょう。「豊かさとは何か」を感じる一日でした。