燃えるような夕空

燃えるような夕空越後奥寂庵への帰り道で、素晴らしい夕焼けが目の前に広がりました。何度もクルマを停めて写真を撮りました。
燃えるような夕空夕焼けに感動しつつも、この田んぼは今年は使わないのだろうかと心配になりました。
燃えるような夕空十日町市浦田から405号線で大島区に入ったところです。遠くの地平線は、日本海に面している直江津辺りです。
燃えるような夕空405号線で菖蒲集落に近づいた辺りです。都心でも人との出会い、分かち合いでの感動はたくさんありますが、自然との交流によって生じる深い感動は、田舎の方が圧倒的にあると、この景色を見て思いました。

今日、町内会長さんと立ち話をしていて、こう言われました。「ここは水や米、山菜など美味しいものはあるし、自然は豊かだし人もいい。でもな、仕事がないんだよ。農業は、大きな四角い田んぼができればいいけれど、ここは山間だから棚田だろ。手間も掛かるしたくさんはできない。やればやるほど赤字だから、若い衆は町に出てしまうんだよな」と。

戦前までは里山で自然とつながりながら生活していたのに、今ではこのような豊かな循環型の生活ができなくなってしまっています。何が豊かさなのか、考えさせられます。確かに自然のなかではやることが多いのは事実です。春になるとカメムシとテントウムシの掃き出し、それが一段落すると草刈りが始まります。夏は休む暇なく草刈りをして、秋になって草刈りが必要なくなるとカメムシとテントウムシの掃き出しがあり、冬になると雪掘り・・・。これに農作業が加わると凄い労力です。でも、そのように身体を使うことは、本来、生きていく上での基本のように思うのです。日帰り温浴で地元の方の身体を観ると、身体ができているんですね。グラウンディングも半端ない。

一日中草刈りをして、一日の最後にこのような夕焼けが目の前に広がった時は、生きている喜びがじわじわと身体の奥底から湧き上がってくるものです。このような身体から沸き上がってくる喜びは、都会ではなかなか味わえないと思いました。都会での便利さは好きですが、便利さと引き換えに失ってしまっているものがあることを、目の前に広がる夕焼けが教えてくれているように思いました。

燃えるような夕空

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