このお寺は、集落を抜けて山に入り、さらに奥の山のなかに佇んでいました。山門前には「この寺は観光のための開放はしていません。人が生きていく道を静かに考えるところです」と立て看板がありました。京都も素晴らしいけれど、自分のサガとして、どうしても中心部ではなく、辺境の地に惹かれてしまいます。そのような自分には、この寺はとても居心地がよかったのです。拝観料もなく、人気もなく、素晴らしい寺でした。
このお寺にはたくさんの観音像があります。夕方の穏やかな光が、観音さまの優しさを引き立てていました。このように光を照り返す存在になりたいものです。
訪れた時、紅葉が見事でした。紅葉の美しさを観ていると疲れが消えていき、喜びが湧き上がりました。自然との出会いは、魂の活きを流れさせてくれます。
葉は、枯れて枝から落ちる前に、色が変わります。なぜ色が変わるのでしょう。科学的に何が起きているかは、僕には分かりませんが、葉になってみると、死を迎える直前に断末魔のように華やかにいのちが燃え上がるように思えます。死を間近に感じた時に、いのちが燃えるのかもしれません。生きとし生きるものは、すべて変態します。自分も自然の一部として、死を怖れず、そのなかに没入することで再生することを信頼したいものです。
針葉樹の葉の上に、枝から切り離されて落ちたモミジの葉が乗っていました。頭ではよく分かりませんが、命の循環を感じました。
山門脇に、雨ざらしになっていた木仏です。誰が彫って置いたのでしょう。優しい気持ちが表れています。
一番奥のお堂の脇にあった石像です。このような静かな境地で、森のなかで坐すことができたら・・・。
とても良い時間を過ごすことができました。季節を変えてまた訪れます。