京都から越後へ
- 2019/11/1
- 越後奥寂庵
一昨日、京都から東京に戻って個人セッションを提供して、すぐに奥寂庵に戻ったからでしょうか、京都と奥寂庵周辺の違いをとても強く感じています。「京都には到底かなわない」と素直に思うのです。伝統、芸能、工芸、文化、町並み、習慣などが洗練されていますから、京都はやはり素晴らしい。国宝も数限りなくありますし、何より歴史上の偉大な人物が暮らしていた環境を肌で感じられるのは本当に有り難いことです。日本人だけではなく外国人も魅せられ、京都に住んでみたくなるのはよく分かります。ここ25年間、毎年京都を訪れていますが、トレーニング会場との行き来だけだったので、今回、少しだけでもお寺巡りができて、本当によかったです。
京都が雅な都であったのに対して、奥寂庵のある越後(新潟県)は罪人が流される「流罪地」でしたから、比べること自体、京都に失礼です。ただ、今回、京都から越後への移動は、個人的には意味のあるものでした。私は京都では、四条烏丸周辺に滞在していたので、親鸞聖人が比叡山を下りてお籠もりをした六角堂がホテルの近くにありましたし、お籠もり後に法然上人を訪ねた東山吉水も比較的近くでしたから、京都から越後に流された親鸞聖人の旅路を感じざるを得なかったのです。
法然上人、親鸞聖人が比叡山を下りた平安末期は、天災、干ばつ、飢饉、貧富の差、政治と宗教の癒着と腐敗があり、不安定な世情でした。そのような末法の世の中で、新たなパラダイムとして、大地に根ざした武士が台頭してきたと同時に、法然上人、親鸞聖人とも、皇室や貴族ではなく農民や下層武士など民衆に仏教を広めたという意味で宗教性も大地に近づきました。このような「中央から地方へ」「情感から大地へ」という平安末期から鎌倉時代へのパラダイムシフトは、大量消費社会の終焉を迎えている現代に対するヒントになると思うのです。そんなことを、京都から新潟に戻る旅で感じました。
京都には龍安寺や東福寺という石庭で有名な素晴らしい、大好きなお寺があります。ただ、今朝、雲海のなかに浮かび上がる山々を観ていて、石庭に決して劣らない、自然が現した空の質を感じました。