思考を超えて
- 2019/2/3
- 越後奥寂庵
先日の不思議な感覚について、自分の投稿を読み返してみて、もしかしたら誤解を生むかも知れないと思い、少し書き足します。
「今、額にある意識を得るには、全てが必要のないことだった」という感覚は本当にリアルなもので、この文面で完結しています。ただ、お伝えしたいことは、この文章を日常の思考を通して読むと、「額にある意識を得るには、グラウンディングも奥寂庵で過ごすことさえも必要ないんだな」と捉えられますが、それは完全にそうなのですが、ある意味、そうではない感覚でもあるということです。「全てが必要ない」という中に「全てが必要である」が包含されていたというか、完全な否定であり同時に完全な肯定でした。否定と肯定が交互に現れるのではなく、同時に存在している感じでした。「否定即肯定」です。思考では矛盾していますが、あの感覚のなかでは調和しているというより一つでした。例えば「グラウンディングは完全に必要であり、同時に全く必要のないもの」なのです。また、「主観即客観」「日常の普通の意識即不思議な感覚」という感覚でもありました。そこには矛盾がないのです。上手く言葉にはなりません。思考では理解できないもののようです。混乱するような説明になってしまい、申し訳ありません。まだ言葉としてフィットしないので、この投稿は後ほど削除するかも知れません。
もう一つ、これは自分自身への覚え書きです。親鸞聖人の法語を唯円が記述したとされる歎異抄のなかの「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」の「親鸞一人」の感覚が、親鸞聖人が言いたかったこととは違うかも知れませんが、自分の感覚のなかでは感知できた部分もありました。鈴木大拙氏は、親鸞聖人は越後の地で霊性を深めたと言及されましたが、その越後でこのような体験が出来たことは、とても感慨深いです。
微かな気配を感じられたことから、やっとスタート地点に立った気分です。