51歳の誕生日
- 2012/11/1
- 森の生活
11月1日の今日、51歳の誕生日を京都で迎えました。自宅でないのは残念ですが、京都でこの風景を眺めながら迎える誕生日は、僕にとって感慨深いものがあります。ここは20年前から毎年一度は訪れている比叡山山麓にある浄土宗のお寺で、画像は僕がいつも滞在する部屋から眺める比叡山です。
ボディサイコセラピーのセラピスト養成コースには、合宿トレーニングと週末トレーニングがあり、合宿は年3回各5日間あります。そのうちの一回はこのお寺で行っているのです。最初の5年間は受講生として滞在し、その後はアシスタントを経て、7年前からは国内トレーナーとして滞在しています。
若い頃は、弘法大師空海や道元に憧れました。それだけ自分の将来に対して希望を持っていたとも言えましょう。20年間自分を見続けてきて、変わったり成長した部分もたくさんありますが、セラピストという仕事は常に自分の限界と向き合う仕事でもあるため、ここ数年は親鸞聖人が好きになっています。あるがままの自分をそれだけ見つめられるようになったと言えるかもしれません。しかし、それだけではなく、私が行っている心理療法のプロセスが、親鸞聖人の思想に親和性があると思えるのです。心理療法では、クライアントとともに意識を深化させていきますが、ある地点まで一緒に行くと、他力が働く瞬間があるからです。その地点では、セラピストとクライアントという表層の役割は消え去り、同じ人間として、二人に対して同等に同時に他力が働きます。クライアントは、その他力によって救われるのです。どんなにクライアントが辛い状況であっても、その瞬間には、二人の内側に静かな歓喜が訪れます。それによってクライアントは癒されるのです。セラピストが癒すわけではありません。セラピストができることは、他力が起こりやすい場を設定するだけなのです。心理療法はハードワークでもありますが、この他力と出遭う瞬間が好きで続けているのかもしれません。
20年間、海外の優秀なトレーナーに師事してきていますが、彼らから学んだものを日本人として消化吸収するためには、親鸞聖人の思想が重要な位置を占めていると、個人的に思っています。そのようなことをここ数年考えていますが、親鸞聖人も修行し、親鸞聖人が師と仰いだ法然上人も修行をした比叡山を見上げながら自己の内面を見続けてきた、というのは、何だか自分にとっては意味のあるように思えてなりません。しかも、今年は誕生日をここで迎えることができました。他力に感謝です。